乾隆、貝聿銘

乾隆帝は獅子林を六回観光したことがある

清高宗の乾隆は黄河、淮河の治水と浙江省堤防の工程を検査・監督するとともに、江南官員及び士人を篭絡するために、六回の南巡をしていたという。乾隆帝は観光や詩・画の創作が好きで、寄るところで必ず地方の官員によって遺跡の一覧や前人の題詠を記載している輿図が呈上され、一つずつ楽しむという。乾隆帝は蘇州において最も好きな観光地が虎丘、天平、花山と鄧尉山で、城外の寒山別業と城内の獅子林が行った回数が最も多い場所だという。また、各地でたくさんの「御制詩」と題字を残した。《南巡盛典》と道光年の《蘇州府志》の記載のように、乾隆帝は二回目の南巡から、毎回必ず獅子林を訪れる。乾隆二十二年(1757)、二回目の南巡で、倪瓚の《獅子林図》を持って獅子林の対照観賞を行った。「鏡智円照」という匾を賜り、五言詩の《遊獅子林》を書いた。その詩は、「早く獅子林を知り」と宣言し、ここで「松掛千年藤、池貯五湖水」と「真山に似ている築山」と出会い、獅子林が市街地ではなく、「峡谷に隠れているような」人間界の仙境だという感じがして、且つ装飾について「全く新しい亭台」の寒山別業と比べて、「装飾しないことは本然」という詩が獅子林の詩碑に刻まれている。五年後(1762)、三回目の南巡で、獅林寺のため、「画善寺」という匾を書いて、二首の七律を残した。その一首は乾隆帝が自ら複写した《獅子林図》に「命永蔵呉中」を書いたが、もう一首の《遊獅子林得句》は倪図の余白に獅子林を讃える「一樹一峰入画意、几湾几曲遠塵心」を書いた。乾隆三十年(1765)、四回目の南巡で、獅子林のために「真趣」という匾を書いて、園主である黄氏兄弟に一人ずつ《遊獅子林即景雑詠》の三首の七絶と一首の七律を書いサテンを賜った。「城中の良いところは獅林、この詩で風や雨を探し、市街地にいるより、心が落ち着かれる。」はその絶句の一つである。律詩で「毎回倪を見ると楽しくて、図の中に再び来るとより楽しくなる」と宣言し、複写図が倪図の「雷門で太鼓を配置するように見える」より劣れているという。浙江へ行って京に戻る途中で、蘇州に滞在し、また獅子林へ行って、七律の《再遊獅子林》の「都市間で獅子林を愛する」を残した。京に戻ると、13万両の銀子を使って長春園で獅子林の模倣を行い、7万両で避暑山庄で再び獅子林の模倣を行い、また二通の倪図を複写してそれぞれ置いて、その理由が「石渠宝笈」に隠れているという。乾隆三十四年(1780)、五回目の南巡で、《獅子林再迭旧作韻》に「図中の山庄だが、黄氏がずっと気になっている」を書いて二箇所の獅子林の模倣が「図貌」にすぎない「ざっと新しく建設したが、その古い林より劣る」を示したという。四年後、最後の南巡で、乾隆帝は再び徐賁画の十二の獅子林風景図を訪れ、《遊獅子林三迭旧作韻》に「手で書いた痕跡があるが、手より心を使ったように見える」を書いて倪図の複写に際して心を込めて、また「六回の南巡が既に完了され、ここに訪れない」と言った。また、自分に「こんな古い木があって、香ばしい草を探せるか?」と問い、「六回の南巡が終わったから」、彼が「夢の中で観光するしかない」という。乾隆帝に八首の御詩が書かれた《獅子林図》は現在ぼんやりした写真しかなく、その真跡が台北故宮博物館に収められているという。

貝聿銘と獅子林

貝聿銘は中国系アメリカ人の建築家であり、同済大学の名誉教授でもある。1917年4月26日に、貝聿銘は広州に出生され、その祖先が蘇州の望族で、彼が家族所有の蘇州園林の獅子林で楽しい子供時代を過ごした。10歳の時、父親と一緒に上海へ行き、1935年にアメリカへ留学に行き、相次いでマサチューセッツ工科大学とハーバード大学で建築を学んでいた。1955年に、建築事務所を設立し、1990年に引退した。