怡園は清朝末期の1874-1882年に建てられた。浙江寧紹台道顧文彬波は明朝の尚書であった呉寛の故居の遺跡にて九年間で20万を使って建て、「論語」にある「兄弟怡怡」の意を取って、怡園と名付けた。

該園は顧文彬の三人目の息子である顧承に建築され、画家の任阜長、顧芸、王雲、範印泉、程庭鷺等が計画と設計に参与し、園内のすべての石と亭がいずれも手本を起草し、顧文彬と検討してから決められる。建築が終わってから、江南の名高い人達がここで風雅な集いを行い、一時期繁盛だった。光緒二十一年(1895年)に顧承の息子である顧鶴逸波呉大、陸廉夫、鄭文焯、呉昌碩等が怡園の絵を作ることによって、園内に集まった。1919年の仲秋、怡園の主人は琴文化を発揚するため、専門家であった叶璋伯、呉浸陽、呉蘭荪等と上海、揚州、重慶、湖南等からの30人位を誘って、怡園で琴会を開催し、その後、李子昭が長い巻物の「怡園琴会図」を作って、呉昌碩が「怡園琴会記」を作ってその繁盛を記録した。顧麟士が記念として「怡園琴会図」にて「月明夜静当無事、来聴玉澗流泉琴」という詩を作って、美談として伝えられている。活動全体が中国近代琴学歴史に新しい章を書き加えた。それから、「怡園琴会」が琴友の固定活動となった。1935年、琴の専門家が怡園にて風雅な集いを行って、琴学を盛んにして、交流を発揚するため、琴の専門家が「今虞琴社」の設立を提案した。しかし、戦争と社会の不穏によって、怡園琴会の姿がだんだんなくなっていた。顧鶴逸が病気でなくなってから、怡園が落ちぶれた。日偽の時、破壊がひどくて、園内の骨董と書画が強奪された。40年代、怡園が遊園となり、「蘇州大世界」と続けられた。1949年9月、華東軍政大学第二総隊第九団団部が一度ここに駐屯した。1950年「新蘇州新聞」という新聞社がここに設立された。1953年12月、顧鶴逸の息子である顧公碩等が怡園を国家に寄贈した。駐屯した単位がよそへ引越し、市政府が修理の費用を支給し、怡園は観光地として開放されてきた。1992年、内外の七弦琴業界で好評されていた有名な七弦琴の専門家で、呉門琴派の代表人物である呉兆基、有名な七弦琴の専門家であった徐中偉、叶名偑及び呉門琴社の琴友の十人余りが招待に応じて、怡園琴会を再開し、跡の絶えた七弦琴の音がまた怡園にこだまして、今まで延延と続いてきた。

  • 玉延亭

    ここは元々藪であったため、「万竿戛玉、一笠延秋、洒然清風」の詩趣で名付けられた。「万竿戛玉」は藪が風に吹かれて揺れる時に立てられた音である。亭に「静坐参衆妙、法譚適我情」という董其昌の草書石刻が刻まれている。